コンステレーションとレンマ

つくづく便利な時代だと思います。ちょっとしたすきま時間にYouTubeを見てますが、興味のある河合隼雄先生の名前で検索したら、なんと京都大学の最終講義の動画upされていました!!!!

https://youtu.be/TcW40V9pzpw

河合隼雄先生の本がきっかけで出会ったユング心理学。その中で私が一番引っかかった言葉が、共時性シンクロニシティ)と布置(コンステレーション)という考え方でした。

現代はすべてが因果律で答えを出そうとしていますが、心の問題はそれでは答えがでません。例えると、結婚式の直前に最愛の婚約者を交通事故で亡くした女性からの「なぜ彼は亡くなったのでしょう?」という悲痛な問いに科学は「頭部外傷による出血多量により亡くなりました。」と答えますが、それでこの女性は納得するでしょうか?

因果律などの科学モデルで答えられない問いに、宗教モデルは答えようとしてきたと思います。臨床心理学は科学モデルと宗教モデルの間に位置するのではないか?と同じくYouTubeで出会った京都大学最終講義の皆藤章先生は仰られていました。

共時性は「意味のある偶然の一致」と言われています。

ユングの黄金のスカラベの話は有名なので省略しますが、心の奥底にあるものがフッと現実世界に現れてくることってあるのではないでしょうか?それを人は第六感と言ったり、仏教の縁起に絡めて縁起が良いとか縁起が悪いとか考えるのかもしれません。茶柱が立つと縁起が良いと思いますが、それによって何か結合のイメージだったり、そういった成功の元型が呼び起こされるのかもしれません。

布置(コンステレーション)の話も興味深かったキーワードのひとつです。もともと星座を意味する言葉で星座の話が一番わかりやすいでしょう。夜空の星はひとつひとつ独立して光っていますが、その点と点をつなげてイメージを描いて星座をつくる。まさにコンステレーションはそれです。

ユング心理学の本を何冊か読んだ中で、因果律で答えが出ない問いに答えるのは、この共時性と布置の考え方だと思いました。

河合隼雄先生の動画を見たのはそんな中でのことでした。

この講義を見るまでの私はコンステレーションの考え方はもっと狭かったように思います。悪い出来事も後から考えれば物語りとして意味を成してくる、像を結んでくるという意味でコンステレーションを捉えていました。

この講義で、ある不登校の子どもを持つ親が出てきました。親は子どもの問題を自分と切り離して考えようとして、学校のせいにしたり、他の問題を見つけてそれを取り除いて問題を解決しようとします。しかし、そんな単純な問題はないと河合隼雄先生は言います。子どもと親のつながりだったり、色んなつながりの中で問題がコンステレーションしている。だから切ってものを考えないで何がコンステレーションしているか?と考えることが大事だと仰られています。

この話を聞いてコンステレーションの捉え方がガラッと変わりました。自分の思っていたコンステレーションとは本当に狭い意味でしかないのだなと反省しました。物事を捉えるときに、全体の複雑に絡み合った関係性を考慮して、俯瞰で何が像を結んでいるか全体的に捉える。コンステレーションとはもっと深い意味があったのです。

河合隼雄先生の本で「ユング心理学と仏教」という本があります。詳しくは書きませんが、華厳経の縁起の思想がまさにその考え方を教えています。インターネットで「華厳経 ユング」などで検索をしていたら、南方熊楠を見つけて、さらに詳しく調べてみようと思ったときに、中沢新一先生の「レンマ学」に出会いました。

レンマ学の感想はまた必ず書きたいと思いますが、まさに河合隼雄先生のコンステレーションの話と素晴らしく繋がって像を結んでおり、本当に生きていて良かった!という思いです。

この秋は中沢新一さんの「レンマ学」とレヴィ=ストロースの「野生の思考」が個人的な課題図書になりそうです。つらつらと取り止めのない長い文章を失礼いたしました。

最後に書きたいことをひとつだけ書きたいことを書きます。

 

「人は一人では生きていけない。支え合って生きている。」

 

まさにその通りですが、現代は一人で孤独に生きていると思っている人がどれだけ多いでしょうか?

 

本当の意味で、人はみんな繋がりあってお互いに支え合いながら生きていると感じられたらどんなに救われることでしょうか?

 

この基本的なことを真に捉え直すのに河合隼雄先生と中沢新一先生は、私にとって大きな助けをしてくださいました。それだけで感謝しています。

ユングに出会ってから見た「銀河鉄道の夜」

この夏どうしても見たい映画があった。

1980年代の映画アニメ、「銀河鉄道の夜」だ。

 

当時小学生だった私は、父の勧めで見ることになる。当時は怖くて途中で見るのをやめたが、その映画の不思議さだけが感覚として残っている。

 

そんな映画をまた見たい!と思ったのには訳がある。

 

今私の中でドハマリしているユング心理学

その中で意味のある偶然の一致ということを大切にする考えがある。

現代人は全てにおいて原因と結果で説明しようとするが、それでは答えが出ないことが多々ある。因果律では説明できないということだ。

この意味のある偶然の一致、シンクロニシティ共時性)と言うが、起きている事柄(点)が違う事柄(点)と繋がり、星座のように物語としてコンステレーション(布置)していくというような考えである。

 

この夏、銀河鉄道の夜に数日間の間に3回出会った。

ひとつは、ユング心理学を検索している中から、銀河鉄道の夜心理療法終結像を重ねた北川明さんの論文「心理療法終結とは」に出会ったこと。

二つめは、Twitterから犬山紙子さんを偶然フォローして、ツイートを遡って見ていると、なんと一番好きな映画は「銀河鉄道の夜」と言う。

三つめは、私の妻が今見ている漫画「偽装不倫」のモチーフが銀河鉄道の夜だと言う。

 

この銀河鉄道の夜に立て続けに3回も出会ったことが、どうしてもこの夏「銀河鉄道の夜」を見ないといけない!と思い立った理由である。

 

このコンステレーションを以前だったら、意味を感じずに見過ごしていただろう。

私が最近注目している若手ユング派の心理療法家である大塚紳一郎さんがTwitterユングのモラルについて語っていた。私もモラルを大事にしないといけない!と思い、すぐにアマゾンで長編映画アニメ「銀河鉄道の夜」ブルーレイ版を注文したのだ。

そのツイートは下記。

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長々と前置きをしたが、そろそろ映画を見て感じたことをツラツラと書こうと思う。

 

ジョバンニはいじめられているのだろう、その中で唯一味方だったカンパネルラ。カンパネルラとの別れは、ジョバンニにとって耐え難いほど辛いものであろう。ただ、ジョバンニはカンパネルラと一緒に黄泉の世界に行くところまで旅をした。そして今もあの銀河のむこうにカンパネルラがいることをわかっている。だからもう怖くない。そう言えるのだろう。ジョバンニの心のなかにカンパネルラが生きている。

 

私の父の話を思い出した。

 

父は30代の頃に無二の親友を亡くしている。最初は辛くて辛くて耐え難かったと言っていた。ただある時にその友人が今も生き生きと自分の心の中で生きていることを見つけた。そこから少し心が辛さから乗り越えようとできたと言っていた。

 

北川明さんの見事な論文ではとてもわかり易く解説してあるが、この同行二人の心像がまさに心理療法終結とシンクロするのである。

 

ここで私の夢の話をしよう。

最近見た夢の中でも一番印象に残っている夢。

 

(夢1)

私はベッドに横たわっている、どうやら病院で手術をしているようだ。それも開腹手術。その手術の執刀をしているのが、なぜか私の昔通っていた高校の数学教師で女性のT先生だ。私は部分麻酔なのか、開腹手術している様子をジッと見ている。最後の縫合が終わって。病室にもどる。

そうしてしばらくしていると縫合した腹の糸が開きそうになってきている。これはイカンと思い、T先生のところに行く、、、というところで目が覚めた。

 

あまりにも印象に残った夢だったので、続きが見たいと思っていた。ユング心理学ではアクティブイマジネーションという技法がある。違う日の寝る前の静かな時間に、真っ暗な部屋で目を閉じて、夢1の情景を思い浮かべた。以下はアクティブイマジネーションで得た夢のつづきである。

 

(夢2)

T先生の部屋に入って、「先生大変です!縫合した腹が開きそうになってます!」と言うと、先生は優しくしてくれて、横になって縫合してくれた。先生は、「また大変だったらいつでもいらっしゃい」と言ったので、「いつでも良いんですか?」と問うと、「いつでも困ったときはいらっしゃい」と言われたので、すごく安心した。

 

このアクティブイマジネーションが終わったとき、恍惚の感覚だった。

そして自分の中での不安が、幼少期に母が機嫌の良いときと悪い時で受け入れられたり拒否されたりということがとても辛かったことを想起した。そして、もうT先生が自分の心の中にいるから大丈夫だと、スッと腑に落ち、とても安心した。ユング心理学でいうところのアニマに出会ったのだ。(和解したとも言える)

 

ここでも心理療法終結像である同行二人の感覚である。T先生がいつもそばにいてくれているという感覚が不思議とある。

 

T先生は、私が多感な時に初めて母親以外の女性で私を認めてくれて、支えてくれたとても印象に残っている先生だ。その先生が心のなかでいつでも困った時に助けてくれる。そんな思いをしている。

 

 

話を銀河鉄道の夜にもどそう。

 

ジョバンニはカンパネルラが銀河のむこうにいることを知っている。一緒にそこまで旅したんだ!ジョバンニはもうひとりではない。銀河のむこうのカンパネルラと共に生きているんだ。

 

近しい人の死を乗り越えようとする時に、銀河鉄道の夜はとても力強い物語として生きてくる。宮沢賢治が最愛の妹を亡くして作った作品であるということが、この物語をより一層感動的に感じる要因なのかもしれない。

 

現代人の悩みは、自分の物語がうまく作れずにいることが大きな要因のような気がする。そんな時に、ユング心理学の、夢を無意識からの大事なメッセージと捉えることや、点と点をつなぐコンステレーションシンクロニシティなどの考えを上手く利用して、自分だけの物語を作っていければ良いのではないかと思うのだ。

 

私の心の探求はまだまだつづく。

ストレス社会に生きていくということ

人は仕事をしている時に言わば外の顔になる。

ペルソナという言葉は仮面という意味があるらしいが、まさに仮面を被って生きている。

 

仮面を被っているときは、その役割を演じようと必死である。ただ仮面はあくまでもキャラであり、奥底には違う思いもある。

 

仮面を演じるために我慢することも多々あるだろう。

仮面と仮面を外した本来の自分のギャップがあればあるほど人は苦しむ。

 

あるがままに生きるという言葉が格言として生きてくるのは、そうした仮面を被っている現代人に向けてだと思う。

 

本来の自分を少しずつ仮面の中に出していければ、ギャップは少なくなり、葛藤も減っていくかもしれない。

 

人は誰しも表と裏がある。

表を演じるために、裏に気持ちを押し込める。

いつか裏に押し込めた気持ちがピークを超えて、

様々な病気となって現れてくるのかもしれない。

 

だから裏の部分を表に出していくのは大切なことであるのだ。

 

一昔前は祭りがその役割を果たしたのかもしれない。

各地で行われている荒々しい祭りは、そんな人の裏の部分を公にさらけ出しても良い日なのだ。

神輿を担いでぶつけ合ったり、鬼となって子供を脅かしたり、荒々しい気持ちのはけ口がそこにはあったのかもしれない。

 

現代人はどうだろう?

裏の部分を開放する手段を持ち合わせているだろうか?

 

心の奥に抑圧したものを解放する手段。

 

いわゆる趣味というものがその役割を担っていることが多い。スポーツ、釣り、ゲーム、映画鑑賞、カラオケなど様々な趣味にそれをぶつける人も多いだろう。

 

ある意味回答の一つとしては間違いない。

 

マインドフルネスという座禅のような瞑想も有効な手段だろう。目を閉じて、心を無に近づけようと呼吸に集中していくと、はじめはいろいろな雑念を浮かんでくるが最後は無に近づいていく。

 

寝る時に見る夢はどうだろう?

抑圧したなにかが夢に出てくることは多い。

夢に見たことを書き留めて、あとでゆっくりと思い返してみると、自分が何を恐れていたり、何をしたいのか、奥底で思っていた気持ちを再発見することがある。

 

抑圧していたこころを開放していくことに、もっと注力する必要がこのストレス社会にはあるような気がするのだ。

勧善懲悪に見るメンタリティ

日本人は勧善懲悪が好きな人が多い。

水戸黄門に代表される時代ものでもそうだし、大ヒットした半沢直樹など人気の池井戸潤シリーズにもその傾向は見られる。

 

勧善懲悪とは、善を勧めて、悪を懲らしめるという字の通り、善行をするものが、世にはびこる悪を徹底的にやっつける。

 

この勧善懲悪のストーリーを見る人は、スカッとするわけである。そういえば内村さんのバラエティにもそんなのがあったなぁ。スカッとバラエティ。

 

では、その悪を徹底的にやっつけて懲らしめることにカタルシスを感じるメンタリティとはなんぞや?と考えた時に、いまの日本のストレス社会が垣間見える。

 

仕事では、社内にも社外にも悪とまではいかなくても自分の思い通りにならない敵がいっぱいいて、日々その敵と対峙し、我慢して、どうにかこうにか丸く収めて家路につく。我慢、我慢、我慢。家に帰っても、ともすれば家族に責め立てられることもあるかもしれない。

 

そんな思い通りにならなくて、抑えつけていた自分は、普段は言うことのできない上司やお客様などに対して、これでもかというくらい相手の悪を晒し、咎め、やっつけるドラマやバラエティにカタルシスを感じるのだ。

 

昨今の有名人のSNSの炎上も、一種の勧善懲悪のドラマを見る人と同じメンタリティがそこにはあるような気がする。

 

普段、我慢の連続のワタシは、匿名のSNSで有名人の投稿をチェックして、少しでも不用意な発言が見られると、ここぞばかりに相手を晒し、咎め、やっつける。有名人は謝罪に追い込まれることも多く。そこにカタルシスを感じる。

 

土俵は違えど、この二つの事例はストレス社会のはけ口として作用してるような気がしてならないのである。